良心なき知識はたましいの廃墟である。
―スコラ学派―
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ひとには気持の張りが要る。そのために学問がある。まなびといってもいいし、あそびといってもかまわない。
まなんで何かしたいわけではない。ただまなんでいるだけだ。まなんでいるあいだは、夢中になって、夢中なると無心になるから、工夫やおもいつきがやってくる。世のためひとのための役にはたたないかもしれないが、オッとひらめいたときの気分はいいものなので、それを味わいたくてこうしているだけである。
じっさい、できるだけ無になっていると、アイディアやインスピレーションはむこうからやってくる。散歩をするのとまったくかわらない。
ストレスのすくない環境にいると、無になりやすいので、書くことは湧いてくる。ストレスのある環境にいても、それが刺激となるので、やはり書ける。だからどちらにしてもどこまでも書くことはできる。それがおもしろいかどうかはまたべつの問題だ。
知るために学ぶというよりは、無心になるためにまなぶ。たくさん知ったところで、分別がなければ迷うだけだ。まなんで我をわすれて無になる時間をもつ、感受性をまもるにはそれにつきるのではないかとおもう。
以上、連絡おわり。