Paper Tiger

 AdSenseから住所確認の手紙が来た。なかにPINがはいっている。なぜかマレーシアから差出されている。届かなかったら返戻してくれとあるが、郵便局も困るわな。

 

 ぼちぼちGoogleも卒業だ。復職したら空き時間にウェブをながめることもなくなるだろう。海に向ってビール缶をなげるように、ネットに向けてアンデパンダンするのみである。見る専ならぬ投げ専でいこうとおもう。

 

 クリエーターがあまりおおくなっても、いいことはあまりない。キュレーターが必要なのに、キュレーターがクリエーターになろうとすると、追いつかなくなるからだ。はなから信じていなくても、結果的にそれに加担してしまう。

 

 つまるところ勝手に引き寄せるし、引き寄せられる。『ジョジョの奇妙な冒険』のスタンド使いの法則とおなじである。

 

 要は無理にさがしにいかなくても向うからやってくるし、結局は古典をもとめることになるし、プリミティブでシンプルなところへもどることになる。目あたらしいものというのは、ほとんどがペナペナなので、暇つぶしにしかならない。

 

 現状をあきらめねばならないのは、すでにその領域をつかい尽くしたとおもうからで、そのなかではもはや表現できないようなあたらしい何かがあるからではない。そうなると、いきおい手あたりしだいに手さぐりになり、どちらへ行ったらいいのやら、さっぱりわからなくなる。それはただあたらしいというだけで、それいじょうのはっきりしたものは何もないのだ。

 

 ものを書くときもおなじである。いうべきことがなくなってくると、視点をかえたり、枠組みをかえたりして、おなじ問題をちがったふうに書く。いうことや書くことが目的化しているから、フワフワしがちになる。地に足が着かなくなる。


 こういうとき、安易に歴史や伝統からはなれてしまわないで、丁寧に細部を追うことが大事になるのではないかとおもう。この拡散した時代に天才はあらわれないのだからなおさらである。


 芸術だの作品だのといわないで、だまって形式のなかに身をひそめる。ふるい形式に同時代のなにかをスパイスのようにふりかける。あるいは、平板な形式を過去から現在まで同一線上にならべて、それを好きに組み合わせたり、あるいはそこにないものをかんがえたりする。案外、あらたな形式は、そういうところから生まれるのかもわからない。

 

 いずれにせよ、あらわしきれない何かがなければ、どこまでいってもハリボテにすぎない。すくなくとも他人の熱量を肴に酒をのまないようにはしたいとおもう。以上、連絡おわり。