催花雨

 ストレッチ素材のジャケットを2年間ハンガーにかけっぱなしにしていたら、肩が波打ってしまっていた。これを「けにょけにょ」または「2枚肩」と名づけてみたが、名まえをつけたからといって元にもどるものでもない。スーツにはだいぶなれたから、雨がやんだら仮装出勤してこよう。

 

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 先日、実家からFaber Castellのクレヨンがでてきたので、息子のためにもちかえってきた。ファーバーカステルといえば鉛筆であり、1851年に発表された六角形の鉛筆のデザインが世界標準になったのは、文房具界ではあまりにも有名である。

 

 それにしても、もうなん十年も鉛筆をつかっていない。小学校1年のとき、国語の時間にスリランカの家族のおはなしを読んでー光村図書ではなかったかとおもうー、黒鉛採掘のことを知ったのだけれど、いまはどうなっているのか知らん。

 

 ギターの木材とおなじく、資源じたいがへっているのか、それいぜんに需要がへっているのか。ひょっとしたらわたしが知らないだけで、世の中は鉛筆リバイバルに湧いているのかもしれない。わからない。

 

 なんせ、四半世紀ちかくキーボードを打鍵して、また手書きにもどってきている。スプリットキーボードよりは万年筆が好もしい。そのうちにスマホの口述筆記の水準もあがって、キーボードがなくてもさして不都合をかんじなくなる日がくるだろう。

 

 このさきテクノロジーがどんなに進歩しようとも、手書きの魅力がうしなわれることはないとおもう。つまるところ、PCやスマホをつかうかぎり、予測変換によって相互作用的になることからは、のがれられないからだ。それはそれでたのしくもあるが、ノイズであることにかわりはない。ときにはそれがストレスになることもある。

 

 ある意味では楽器練習におけるメトロノームのようなものだ。あればたすかるし、正確な演奏のために必須ではあるものの、ときには好きなように弾きたくなる。そういうものだ。

 

 急いで書く理由も、必要も、そのうちになくなってくる。手にやさしく、絵筆にもなる万年筆は、廃れはしても消えることはないとおもいたい。以上、連絡おわり。