Mille Mercies

 さいきんの息子。うれしいとき、かなしいとき、感情のたかぶりはすべて地団駄であらわされる。

 

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 みるみる子どもが大きくなっていくのはいいのだが、いっぽうでコーヒーミルの調子がわるい。分解洗浄してもよくならない。症状は先代のときとおなじで、挽きをこまかくすることができない。

 

 安定して中粗挽きにはできるので、フレンチプレスの出番ということにしている。やはり朝は地獄のようなコーヒーがないと、一日がはじまった気がしないのだ。

 

 ということで、このところフレンチプレスでコーヒーを淹れている。味はこちらのほうが好みなので、ヘタをするといちにち3回のんでしまう。コストパフォーマンスはかなりよくない。

 

 豆の雑味もでやすいので、しぜん吟味せざるをえなくなり、コストをかけざるをえなくなってきている。とにかくハンドピックと茶こしは欠かせない。

 

 すったもんだのあげく、結局いつもの豆に戻した。節約にも程というものがある。いくらハンドピックしたところで、ムリなものはムリだし、ダメなものはダメだし、バツなものはバツだった。せめて冬は自家焙煎で自足しよう。

 

 いまのところ、お湯300mlに豆20gでやっているが、それぞれ適量、好みにあわせて調節していくことになっている。豆の具合と挽き加減、湯の温度、容器の大きさなどによって、塩梅がかわってくるからだ。

 

 理屈をいえば、こういうのもデータ的に制御すれば、恒常的におなじ味がでるはずだが、それも大人げないというか、かりにちゃんとやったとしても、必ずしもそうはならないのである。真空管アンプとおなじで、ひとつひとつはきりすてもいいようなちいさな要素のつみかさねが、ぜんたいとして複合的な味わいを決めているからだ。味わうほうの調子が一定でないというのも、真空管アンプとおなじである。

 

 結局、おいしさや音響特性のよさだけをもとめているのではないというのが、理屈屋からすればじれったいというか、解せぬということなのかもわからない。アナログというかなんというか、どうやっても最短距離をいくことはできないようになっている。

 

 なお、味覚という意味では、年とともにどんどん鈍ってきているが、これもそういうものだとあきらめて居る。「好きこそものの上手なれ」というけれど、好きは道楽の入口でもある。好きが嵩じると、なんにでもいいところを見つけられるようになり、それをたのしんでしまうので「みんなちがってみんないい」という玉虫色の結論になりがちである。じっさいはそんなのはまやかしだが、わかっていてもついそうなりがちである。

 

 このあたり、パチンコ好きがパチプロに向かないのと、なんらちがいはない。あるいは、アメリカ料理がいつまでも世界を席捲しないのも、似たようなことかもわからない。かぎりない現状肯定からは進歩はうまれないのだ。

 

 べつにセラミックの刃が摩耗した様子もないけれど、ほかにさしたる原因もおもいつかんし、つぎに買うときはステンレス刃にしてみようとおもっている。電動のカット式をえらぶといきなり終点に着いてしまうので、財布もかるいし、やめておきたい。

 

 以上、経過連絡。