直感と理屈と徒党。

 さいきんの息子。絵本のタイトルを告げて、もってきて、というと、9割がたもってきてくれる。こやつ、わかるのか?

 

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 直感がすぎるとスピリチュアルになる。理屈がすぎるとひとがついてこない。共感がすぎるとじぶんがいなくなる。

 

 経験によって感情がゆたかになる。経験しないと感情は体得されないといってもいい。本を読んだり動画を視聴したりするのは、精神的な素振りのようなものだ。そして、趣味は素振りではなく野球というほうが、やはりしっくりくる。

 

 そのものにちかづくほど効果はますが、疑似体験はどこまでいってもシミュレーションにすぎない。といって実践ばかりしていると、それはそれで視野がせまくなってしまうというから話は少々ややこしい。

 

 トレーニングをしながらトレーニングについてかんがえるのを水中で火をたくようなものだとするなら、組織のなかで働きながら組織についてかんがえるのは水中で水をのむようなものだ。けっしてながつづきしない。

 

 基本的にはバットを振らないとスイングスピードはあがらないし、打席に立たないと打撃はうまくならないし、試合をしないと野球勘はやしなわれない。ほかの分野から学んでこられるようになるのは、あるところまで習熟してからのことだ。

 

 もっとも、サッカーをしていて結果的に野球もうまくなることはあるかもしれない。仲間とからだをうごかしているうちに、気づきを得られるかもしれない。すくなくとも文学書を読むよりは効果があるだろう。

 

 本を読むと想像力がやしなわれ、ことばに習熟することができ、結果としてコミュニケーションに役立つ、しいて効用をあげればそういうことだろうか。

 

 ある種の年長者と話すと思考が整理されて地に足がつく。実技がかならずしもうまくなくても、経験と感情がゆたかで、言語化に長けているから、経験を精緻にモデリングできるのだ。

 

 話しているほうでは、現状を俯瞰して再確認し、気づいていなかったことに目をむけるきっかけになる。これは経験だけではなく、経験から育まれた人間性のちがいであるといえる。

 

 要するに年の差は経験の差なので、基本的には追いつけないようになっている。さいきんのあそびに前提がなく、積み上げがなく、おわりのないものがふえているのは、その裏返しのようにもみえている。

 

 

 何はともあれ、長期育休をとったのは有意義だった。自分自身が整理される。そういえば先輩が生前「たちどまってかんがえろよ」とよくいっていた。気づきはいつもおくれてくる。

 

 以上、連絡おわり。