煙草を吸うひとはバカか天才か気分屋かストレスフルな仕事をしているかのいずれかだ。では煙草を吸わないひとは、とふりかえって、ほとんど定義できないことに気がついた。
WHOの統計によると、煙草を吸うひとのIQは、吸わないひとにくらべて2、3たかいのだそうである。たぶん実情はサンドイッチの具のような構図になっているのだろうと推測する。つまり「煙草を吸うやつはバカだ」という意見は半分あたっていて、アインシュタインの「パイプにはひとの思考を方法的にするなにものかがあるようです」といったのもやはり半分はただしい。
それはさておき、批評家というのはどのようなひとたちなのだろう。芸術作品を批判し評価するのが彼らの仕事ということでいいのだろうか。たとえば、ある作品が芸術かそうでないかを区別するのもまた批評家の仕事と考えていいのだろうか。
そういえば鑑定士ということばもあるが、彼らは真贋の区別をしているわけだから、芸術か似非芸術かの判定もしているのだろうか。わたしには見当もつかない。
芸術作品を批判し評価するためには、対象となる作品のなんたるかを見とおせなくてはならないはずだけれど、じっさいにはそのようなひとはみあたらない。たいていの批評家は、作品の内容を粗雑なことばでいいかえたり、作品をダシにしてじぶんのいいたいことをいったりする。
小説家は頭がわるくて―これも半分は事実で、凡庸な批評家でもいちおうやっていけるのはそのためである―、批評家は頭がよい―これも半分は嘘だ―というおもいこみがうまれるのは、芸術作品というなんだかわけのわからないものを、彼らが自信満々に絵解きしてみせるからである。するとなんとなくそれを読んだひとは「こういうことだったのか」と納得したりする。
しかしながら、芸術作品はジンメルのいうように「生命の光の束」なので、その精髄は分類や分析、はたまた一切の説明をきらう。テクストを腑分けするメスのあいだから、するりと逃げ去ってしまう。
そうした性質があるために、あるものが芸術作品かどうかという判断は、つきにくくなってくるのである。すなわちその精髄は万人に理解できるかたちにはならない―うまくことばにできない―から、ときに中身がカラッポでも「これはゲージュツだ」といった瞬間、みわけがつかなくなることがある。
そうなってくると、芸術らしく見せることや、芸術だとおもいこませることのほうが重要になってくる。いわゆるショウ・アップでありハッタリであり自己演出である。それらがヒップで格好よければ、ほんとうに芸術になったりする。初期のゴダールなどはそうだとおもう。
なんのこっちゃわけわからんくなるまえにおわりにしよう。チャオ!