われわれは程度の差はあれ自分を正しいとおもって生きている。そうしないとやっていけないので、生きているかぎりはそうすることになっている。
その正しさがみとめられないと、腹を立てたり、すねたり、投げやりになったり、あきらめたりする。いってみればただのミスマッチであり、ミスフィットである。気にしなければそれで済んでしまうこともおおい。
とはいえ、なん度も否定されたり、結果として認められない状況がつづくと、己をうたがいだし、ひいてはうたがっている自分に腹を立てることになる。悪循環である。
そういうとき、すくなくとも、その場になじめていないとはいえる。そのようにして、ひとは河岸をかえ、居所をかえ、職をかえて、どこまで行っても満足することがない。抵抗をあきらめるところまで流れていき、あとは流されていく。
あるいは、正しいといういいかたは適切でないかもわからない。ある意味ではどちらも正しいから争うのである。
とはいいつつも、己を認められる場がすくなくなってきたら危険であることもたしか。荒廃は知らぬ間に忍び寄る。そういうものだ。
先輩に「腐っちゃダメよ」といわれて5年たつ。かつての上司に「腐っても鯛」といわれて10年ちかくたつ。もはや腹も立たなくなっている。それがいいことなのかどうか、つぎの10年が明らかにしてくれるだろう。
行きたいように、行けるところまで行くだけである。以上、連絡おわり。