とりあえず書くことによって、自分が何をおもっていたのか明瞭になることもあるし、反対に、ことばのなかに押しこめられて見えなくなるときもある。ことばにするとちいさくなってしまうとおもったら、だまっていたほうがいいのかまでは、わたしにはわからない。
ことばにするとき、自分にわかるように、ことばにする。それが他人にもわかるようなら、そのひとはことばをつかうのがうまい。
たいていは、ことばにすると、何かこぼれ落ちたり、うまくいかなくて「あーもう」とこねくって、結局は気に入らないかたちになる。音楽において気に入ったサウンドをつくるのがむずかしいのと、おなじことではないかとおもう。
夢枕獏氏の『空海』に「この世でもっとも大きいものも、小さいものも、ことばである」という一文があったと記憶している。何かをことばにした瞬間、それはことばのサイズになる、というニュアンスだったとおもう。
すくなくとも、ことばにすると、対話の糸口は生まれる。いっぽうで、行為によっても、ひとは十分に対話できる。
岩登りをしていると、ひとの完登がモチベーションにつながることがある。他人の取組みを見て自分もがんばらせてもらう。他力といえばそれまでだが、そういう側面はたしかにある。
対話が向かい合わせだとすれば、行為はおなじ方向を向いているといえるかもしれない。いってみればそれはテーブル席とカウンター席のちがいであるようにわたしにはおもえるが、ぜんぜんちがうかもしれない。
・・・というようなことを、書きながら改めて再認識した、というはなし。「改めて再認識」をトートロジーとすれば「方向を向く」もそうだろうか。うまい躱しかたをおもいつかない。
ひとまず連絡おわり。