映画の話

 DVDが売り出されたときのことはあまりよくおぼえていない。そのころ映画はテレビで観ていたし、それも熱心な視聴者ではなかった。だいいち映画を観に行く習慣がなかった。よく知らない得体の知れないものよりも、慣れ親しんだ漫画ばかり反読していたような気がする。

 

 当時のじぶんが芸術全般に対して背を向けようとしていたのか、でも音楽だけはディグしつづけていたから―それも図書館を使って―、ほかまで手がまわらなかったのか、それともたんに財布が軽かったのか、おそらくはこうしたすべての要素が働いて、僕と映画の間を遠く隔てていたのであろうと思う。

 

 仮にあのころ音楽でなく映画をディグしていたとしたら、たぶん相当な洗脳をうけることとなり、いまとはぜんぜんちがう性格になっていた筈だ。こういうことを想像してみるのはなかなかたのしくて、人間の人格形成というものは多分に偶然に左右されるものであるように思えてくる。

 生まれや育ち―環境―によって不可避的に自我のありようはかなりの程度―ものごころつくところまで―形成されてしまうから、ひょっとしたら僕らが関与できるのは、あくまでその後の部分にすぎないのかもしれない。

 

 それがどのくらいの割合で、またある程度固くなった自我にどれほどの可塑性があるのかというのは、正直なところ僕の手に余る問題である。

 

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 さて、世の中ではつねにさまざまな問題が起きていて、誰が見ても深刻度の高いもの―核戦争の危機とかそういうの―からそうでもないもの、ある種の人間にとっては重大事でも興味のない人からするとまるでどうでもいいことなど、とにかくいろいろあるのであるが、してみると我々は平和時にはある程度まで考えたいことを考えることが許されているようである。問題の選択、というやつですね。

 

 それで映画市場をとりまく状況について考えてみたところ、人々が映画を観る方法が変化しているというのはどうやら事実であるらしく、DVDの売上は減少し、今度はストリーミングなんてものが普及して、たくさんのデジタルサービスが利用可能となって久しい現状があるみたいだ。

 こうなるとひとくちに映画鑑賞といったところでその質と幅は相当に変わっていて、その中で映画館で観る映画について少しだけ考えてみたくなった。

 

 まあ要するにさいきんDVDをよく買うようになってそれで観たところがいまいちピンと来ないとそういう話。鑑賞の質と幅を考えるにあたって鑑賞態度と環境とあり、DVDに限らずホームビデオというのは画面が小さくてイマイチ迫力がなく、止めたり巻き戻したりできるからどうしても眺める感じになりがちで、おまけにプライベートなものだからくつろいでしまって注意力散漫となり、これでビールなんか飲んでポテチなどかじってしまったら見えるものも見えないし聞こえる音も聞けやしない。

 

 対して映画館で観る映画は基本的に一回こっきりであり、それゆえに濃度が高い。反復して観るとしてもその都度身銭を切るわけだから当然気合の入り方がちがう。環境にしても、この国では映画は集中して観るものだという認識があるから、大きなスクリーンで目くるめく画面に没入することができる。

 衆人環境でありながら同時にきわめて個人的な体験を提供するのが映画館であり、その仲立ちをしているのが暗闇なのですな。

 

 もっといえばある種の秘密めいた共有の体験、それが映画館の暗闇が持つ親しみぶかい魔力であるといっていいのかもしれない。

 

 これは見る側の問題でもあるから、これは上記の誘惑に耐えるだけの意志の強さ―これを映画に対する愛が支えている―があるかないかというところに落着く。これはせつないといえば、かなりせつない。