情報節水

 さいきんの息子のわざは「ピンボール」。部屋の壁につきあたっては跳ねかえり、スリークッションしてもどってくる。

 

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 それにしても、20年まえとはくらべものにならない量の情報を処理しているとかんじる。というより、ジャンクがものすごくふえている。

 

 つくづく、リテラシーをあげておいてよかったとおもう。目利きができない状態でかこまれたら、検索をあきらめてAIに訊いていても不思議ではない。

 

 むかしのように、大学の演習で情報検索技術などを優雅にまなんでいられるような時代ではなくなっている。いち日かけて図書館へ遠足に行くような講義はなくなっている。そのようなのんきな時代は、とうのむかしにすぎさってしまっている。

 

 ものごころつくというか、判断力というか、理性というか、認識力というか、なんというのか知らないが、未熟なうちから容赦なく情報の洪水にさらされると、かんたんに溺れて流されてしまいそうである。

 

 それなら生成AIかというと、これはいまのところジャンクの集合知なので、そこまでかしこくならないような気もする。めちゃくちゃないいかたをすると、民主主義が衆愚制におちいるのと似たようなものではないかとおもう。

 

 なぜというに、このようなブログを、だれでもいつでも、いくらでもアップできてしまうからである。ネットの海へかんたんにアンデパンダンできてしまう。海ゴミがへらないのとおなじである。

 

 マイクロプラスチックでしっぺ返しをくらうように、いつかネットの海から復讐される日がくるかもしれない。あるいは、すでに侵食されているのに、気づいていないだけかもしれない。それはわからない。

 

 はなしをもどすと、何かをふやしたいという欲求にも、つねにあたらしいものをインプットしたいという欲求にも、日常的な消費の欲求にも、図書館とブックバンクとジャンク屋とウェブをあてている。古典は図書館にちゃんとあるし、新刊を買うことも、ほとんどなくなった。

 

 どうやら、なんでもかんでも身銭を切るという段階はとおりすぎたらしい。結果として、ニッチな本だけが、すこしずつあつまっていく。手もとのリソースをすこしずつへらそうとすると、なおさらそうなっていく。

 

 なんせ、さきおくりにせず、とにかくすすめていくことだ。そのさい、制御不能になってもかまわない。一向に収束しなくてもかまわない。その点、むりにコントロールしようとしない。

 

 そのかわり、中途半端な気持でとりかからない。そのときどきのインスピレーションにしたがって、それがつづくかぎり手をだしつづける。

 

 もどってきたくなったときに、またもどってくればいい。さきの見通しばかり立てて、いまの暮らしをうすめたくはない。以上、連絡おわり。