緑酒

 嗜好は論より習慣である。したがってひとつひとつ経験を積むより手がない。 

 

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 「備前焼の酒器を使う前に一日水につけておくといい」と言われて、長年その通りにしているが、そんなにしなくてもいいような気もする。水につけた方が具合がいいのは確かであるものの、時間の流れ方の違いというか、心がけも入っているんじゃないかと思う。
 
 何につけそうだけれど、備前焼も過去の作品を超えるのはすこぶる難しいようだ。こういうのは需要が変わったことの方が大きくて、作り手のせいではないことが殆どである。むしろ感覚は進んで技術も上がっていたりするから「先人はエライ」くらいしか言いようがない。

 金重陶陽のような人が現れる時代ではないのである。むしろこのご時世にあのようなものを作られても困ると思う。

 

 さておき、ぐい飲みである。備前焼のあの土と太陽の感じはいい。飲み口ですか? よくはない。

 

 酒を飲むとき、物理的に酒をうまくしたいか、気分良く飲みたいのか、ときどきだと思う。たしかに、ワイングラスのような器で飲めば、香りは引き出されやすい。そうでなくても、酒器を選べば、そういう味わい方はできなくはない。

 

 ずいぶん昔に、知り合いの陶芸家がワイングラスのステムを外したような恰好のぐい飲みをわざわざ作って餞別にくれたことがある。要はリーデルのOシリーズのような形状である。今でもときどき使っているが、ぐい飲みだと香りをためておける容積がそこまで増えない。そしてこれは本人にも聞いたのだが、陶器だと飲み口を薄く作るのがむずかしいのだそうだ。

 

 もっと言ってしまえば、この手のぐい飲みは、ぽってりと厚く、中の色などもわからなくて結構である。それは雄勁で重厚であればいい。
 ついでに申し上げるなら、それでも飲み口の厚さを違えてあるといい。そうしてあれば、飲み手の方で相対的に合う場所をそのつど選ぶことができる。

 

 結局のところ、こういうのは実際に飲んでみないとわからない部分も多い。見てくれが気に入っても飲み口が意に沿わないことはあるし、逆も然りである。

 

 そんなわけで、酒を即物的に飲みたければ白い朝顔型の器が世話がないような気もしてくる。ただし自由度もあまりない。

 とくに酒飲みではないが酒器を選べるときに無意識にこれを使っているという人がいたら、単純に形が好きか味覚の鋭敏な方であろうと思う。酒飲みでこれを日常使いする人は老練の域である。筆者はまず使いません。何というかあれは繊細すぎるから。

 

 本人が少しは重厚になれば、ああいう薄い酒器を持てるようになるのだろうか。遠い。